僕たちはもうあまり、餡子の詰まった最中と番茶を喫することはない。

例えば「美しい国、日本」というものが、餡子の詰まった最中と番茶だとする。縁側などでそれらを食すのだ。それは現代では触れる機会の少なくなってしまった日本的な体験であり、自国なのにどこか別の国の文化に触れているかのように感じられる。
それほど、日本人は日本的なものから遠く離れてしまった。今更言うまでもなく何十年も前から。日本人はもう、番茶やりコーヒーで喫する。

「美しい日本」を守り続ける意味はなんだろうかと問う。
グローバル化が進み、世界が繋がるとこで国の文化は他国の文化とミックスして急激に変化している。歴史を紐解けば、これまでもそうしたミックスで変化し続けていたのだと分かる。

「美しい日本を取り戻そう」というのは単なる懐古主義・愛国主義に過ぎない。
極端にいえば、もしも「アメリカで生まれたiPhoneは日本的ではないから使ってはいけない」という法律ができたら、大半の人が日本から出ていくだろう。
この急激な変化を続ける国際社会において「美しい日本を取り戻そう」とする必要はあるのか。

体制が国民に対し、日本的な生活を強要することはできない。ぼくたちには、番茶かコーヒーどちらを飲むか選択する自由がある。
もちろんお花見や夏祭り、神社仏閣など、日本的なものは守り続けなければならない。それらを保存し、時代を経て共有しながら、「日本」と名付けられているこの列島に生きる「日本人」とは何なのかを問わなければならない。そうやって歴史のページはめくられていく。

僕たちはもうあまり、餡子の詰まった最中と番茶を喫することはない。
その代わり、スタバでドリップコーヒーのShortとチョコレートスコーンをオーダーし、なにを見るでもなくロードサイドを走る車を眺めながらchill outする。それが今を生きる僕たちの、嘘偽りない姿だ。